風土

を訪ねて

酵母においしいパンを
作らせて
もらってるんです。
たなごころ

店主井上 百合子

東京/檜原村
発酵と人

「発酵」とは、今も昔も人とともにあるもの。
人は発酵を活かし、発酵に生かされてきました。

この「発酵風土」は、各地につづく発酵の歴史に触れようという試みです。今回は、東京都・檜原村のベーカリー「たなごころ」を訪ねました。

深い緑に包まる場所

夜明けのうちに出発しました。
目指すのは、東京唯一の「村」である檜原村です。
車で揺られること1時間半。
やがて明るい空が目の前に広がりはじめると、窓の外の緑が昨日の雨粒が陽を受けてきらきらと輝いていることに気づきます。

それがあまりに美しくて、思わず車内で「わあ……。」と声を漏らしてしまうのでした。

降り立つと聞こえてくるのは、すぐ近くの川の音。
「流れる」よりも「せせらぐ」がしっくりと似合うような、心地のいい音色です。

そんな自然豊かな、檜原村人里(へんぼり)に店を構えるのが、今年で17年目を迎えるベーカリー「たなごころ」。
遠方からもファンが押し寄せる、人気店です。

『これがいい』と思って、
ずっと作ってる
だけなんですよ。

毎朝、パンを焼き上げること

迎えてくれたのは、店主である井上百合子さんです。
夫・佳洋さんとご夫婦で、このベーカリーや宿泊できるコテージなどを含めた施設「たなごころvillage」を切り盛りされているといいます。
百合子さんのお仕事は、なんと言っても、毎朝おいしいパンを焼き上げること。
今日は特別に、そのパンを焼き上げる工程を見せていただくことになりました。

「これから3台のオーブンを使って焼いていくんです。それぞれの温度、それぞれの分数を決めてるんだけど、パン作りはぜんぶ独学。自分なりにおいしいと思うものを作ってきただけだから、あんまり大きい顔して『パン職人です』なんて言えなくって(笑)。『これがいい』と思って、ずっと作ってるだけなんですよ。」

「だけど、『原料に気を遣ってます』ってことは胸を張って言えるかな。うちのパンは、牛乳もお砂糖も卵も入れないんです。たねに使ってるのは、自家製の酵母と、北海道産の粉、伊豆大島の塩だけ。すごくシンプルでしょう?そこに、庭で育ててるキウイを乗せたり、愛媛県から仕入れてる伊予柑のピールを練り込んだり。そんなふうにして、お客さんに喜んでもらえそうなメニューをどんどん増やしているところです。どれもおすすめ、どれも看板商品ですね。」

おいしいパンを
夫に食べてほしかった
からなんですよ。

酒饅頭の作り方をヒントに

自家製のキウイで作られたペーストの上に、輪切りを乗せて焼き上げるキウイパン。甘酸っぱくみずみずしい香りが工房いっぱいに広がります。

「結婚したときに、お祝いとしてこのキウイの苗をいただいたんです。30…何年前だったか忘れちゃいました(笑)。肥料も何もやってないんですけど、毎年こんなふうにして立派に実るんですよ。数に限りのあるものだから、今年はもうあと1〜2回で終わり。この季節だけの特別なパンなんです。」

百合子さんの隣に立ち、どうしてパン作りを——?とたずねてみます。

「こうやってパンを作りはじめたのも、実は夫のおかげのようなもので。きっかけは、シンプルな材料だけで作ったおいしいパンを夫に食べてほしかったからなんですよ。

檜原村のこの辺りは、昔から、80代・90代のおばちゃんたちが酒饅頭を手作りすることが多くてね。お米と麹を使って自分で酵母を作るんですよ。自然の温度を利用して発酵させて、6月や7月になったら、その酵母を使って酒饅頭を作るの。それが、ものすごくおいしいんだな。だから、わたしもおばちゃんたちに教わって作るようになったんです。

だけど、あるとき夫が体調を崩し、食事に気をつけなければいけなくなってしまって。なのに、わたしが酒饅頭を作ると2〜3個ペロっと食べちゃうんです。これはいけない、と思いました。
それで、この酵母を使って酒饅頭以外のなにかを作れないかと考えるようになったんです。粉と混ぜてパンを焼いてみるのはどうだろう?と思いついて、試してみたらうまくいっちゃった。自分のなかでは大当たりでした。それがパンを作りはじめたきっかけなんです。こんなに長く作ることになるとは思ってもみませんでしたけどね(笑)。」

いい循環が
生まれてるんですよね。

辛い朝も起きられるのは——。

佳洋さんのためにはじめたパン作りでしたが、その味は佳洋さんだけでなく、周りの方からも大好評でした。やがて、百合子さんのパンに惚れ込んだご友人や近所の方々から「もっと作ってほしい。」と頼み込まれるようになったといいます。

「そんなこんなで、お店を始めてもう17年目になります。毎日毎日やってるものの、別にうまくなるわけじゃあないし、朝は早くて辛いしね(笑)。だけど、やっぱりお客さんに『おいしいです』って笑顔で言ってもらえると本当にうれしくて。それが支えになるし、その笑顔でわたしも笑顔になれる。いい循環が生まれてるんですよね。」

「それに、このコロコロッとしたパンたちが、なんだか無性にかわいいんですよ。この気持ちってなんだろう? とふしぎに思うけど、やっぱり大切に作っているからなんですかね。夜の8時半からこねはじめて、出来上がった生地を発酵させて。また朝の5時半に起きて、成形して、また発酵させて、焼き上げていく……。その繰り返しの毎日です。やっぱり体が辛いときもありますけど、『あの子たちが、待ってる!』と思ったら、なんだか苦手な早起きも頑張れちゃうんですよね(笑)。」

パンを見つめる百合子さんのまなざしからも、その愛おしい想いがたっぷりと伝わってくるのでした。

酵母においしいパンを
作らせてもらってるんです。

酵母という「家族」

手間暇をかけた、かわいいパンたち。そしてなにより、手塩にかけて育てた自家製の酵母は、百合子さんにとって「家族」のようなものなのだそう。

「あんまり見せたくないんだけど……、今日は見てもらおうかな。」
そう言って、百合子さんが大切そうに取り出してくれたのは大きなペットボトルのような容器でした。

「これで、酵母を作ってるんです。触ってみて。パンパンになってるでしょう?どんどんガスが溜まってくるものだから、この容器の硬さ具合で、発酵の進みを判断するわけなんですよ。この酵母を粉に混ぜて、パンの生地を作ってるんです。

酵母は生き物だから、大事な家族のようなもので。いつもわたしは『おいしくなってね』『明日の朝も、起こしてね』って声をかけたりしていますよ。そしたら、本当にアラームが鳴る前にパッと目が覚めたりするから、ふしぎですよね。
だから、パンはわたしだけが作っているものではなくて。いつもいつも話しかけて、酵母においしいパンを作らせてもらってるんです。」

たどり着いた先には笑顔がある、
ってことなんじゃないですかね。

発酵とは——

ほかほかと香るいい匂い。パンたちが焼き上がってきました。

「なんて、おいしそう。」という感想とともに、「なんて、かわいい……。」という想いが自然と湧き上がってきます。
大切に育てられたパンたちは、こんなにも愛おしいのです。改めて百合子さんに「発酵とはなんでしょう?」とたずねてみました。

—— 百合子さん、「発酵」ってなんでしょうか?

「たどり着いた先には笑顔がある、ってことなんじゃないですかね。考えながら、悩みながら、丁寧に重ねていったプロセスの先に、みなさんのうれしそうな笑顔があって。だからこそ、わたしも頑張って続けることができているので。
店内で召し上がっていただくこともできるんですけど、お客さん同士で自然に会話が生まれていたりもするんですよね。そういうのを見ると、わたしもすごくうれしい。発酵のおかげで、たくさんの笑顔を見ることができています。いつも感謝でいっぱいですよ。」

最後に、焼きたてあつあつのパンをいただきました。
パリパリの表面に指を押し当てて、割ってみると、中からはさらにたっぷりの湯気が。
「いただきます。」
口にすると、ふわふわでもちもち。表面との食感の違いにまずは驚かされます。そして芳醇な小麦の風味と、程よい塩味。ひと口目から、ふた口目が楽しみで仕方がありません。

酒饅頭の工程をヒントに生まれた、自家製酵母の手作りパン。世界にひとつの味に、深く惚れ惚れとしてしまうのでした。
たなごころさん、どうもありがとうございました。

取材/文 中前 結花
写真 藤原 慶

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